沿革・歴史

History

ビーアンドエス・コーポレーション
100年の歴史

京都市左京区、吉田山のふもとで、乳酸菌の研究、
そしてヨーグルト製造がはじまりました。
明治時代が終わろうとするころです。

当社は、大正3年、日本ではじめてヨーグルトを製造・販売した会社です。その後、独自の研究を重ね、商品を多数開発。素材も自社専用農場の農薬不使用の大豆を使用するなど、安心で、安全、体によいもの、環境にやさしいものをお届けしたいと考えております。

創業期(1905年~1944年)

1905年
(明治38年)

医師/正垣角太郎(明治7年生まれ)、
メリー・メチニコフの「長寿論」に感動する。
まずは自らの身体で乳酸菌療法をためした初代 正垣角太郎(医師)。胃腸疾患が治癒し、健康体へと変わるのを実感した。「この喜びをたくさんの人とわかちあいたい。乳酸菌を役立てたい」という志が生まれ、角太郎の研究が始まった。
パスツール研究者の生物学者であるエリー・メチニコフ

パスツール研究者の生物学者であるエリー・メチニコフ

1914年
(大正3年)

日本初のヨーグルト製造販売を京都で開始
前日夜から製造したヨーグルトを早朝に自転車で配達。援助の意味もこめて、学生寮をつくり、学生たちを配達のアルバイトに雇う。早朝に配達をすませた学生たちは、その後、学校へ通った。
昭和5年、研生学会新館落成記念。中央に座っているのが正垣角太郎。多くの人がお互いに力を合わせて、製造・配達などヨーグルトの普及につとめた。

昭和5年、研生学会新館落成記念。中央に座っているのが正垣角太郎。多くの人がお互いに力を合わせて、製造・配達などヨーグルトの普及につとめた。

1925年
(大正14年)

4種類の乳酸菌共棲培養法を確立
4種類の乳酸菌培養液と砂糖溶液を混合し、あまみと滋養のある「エリー」を開発・発売。これは現代の乳酸菌飲料の原点。
エリー株式会社・研生学会発足
エリーの宅配販売をおこなう会社を発足させるとともに、さらに研究開発をすすめるために、研究機関として「研生学会」も設立。
京都大学と共同研究
医師だった正垣角太郎は京都大学農学部/近藤金助、医学部/木村廉教授などと共同研究をつづけていた。
若き日の正垣角太郎。数多くの苦難を乗り越えてきた。

若き日の正垣角太郎。数多くの苦難を乗り越えてきた。

画期的な宣伝広告と
ていねいな顧客販促で話題に
飛行機を使った宣伝広告の手法は、ちまたで話題になった。ただし、派手な戦略で商品を売るのが目的ではなかった。顧客に対してはていねいな解説と正しい健康法の啓蒙を徹底していた。
飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

1936年
(昭和11年)

角太郎の長男・正垣一義、
乳酸菌8種類共棲培養法を確立
「ソキンL」として発売
さらに研究をすすめ、「エリー」をバージョンアップした「ソキンL」を発売。また、長期保存と携行が可能な「潤生ソキン」も開発。これは乾燥した粉末のなかに仮死状態の乳酸菌が生きていた。

1937年
(昭和12年)

正垣角太郎 没(享年63歳)
ソキン製薬株式会社を設立
「大木合名」、「塩野義商店」(現・塩野義製薬)をつうじ、「潤生ソキン」を医薬品として販売。販売店への説明会や勉強会を頻繁におこない、正垣一義らが啓蒙活動に身を投じた。
飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

昭和11年11月27日付大阪朝日新聞の全面広告。

医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。

医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。

陸軍軍医学校と共同研究開始
「潤正ソキン」は粉末状、あるいは錠剤として、戦場へも携帯できるため、陸軍との共同研究で効力を立証された。生きた乳酸菌製品としては、これが最後になる。
パスツール研究者の生物学者であるエリー・メチニコフ

パスツール研究者の生物学者であるエリー・メチニコフ

若き日の正垣角太郎。数多くの苦難を乗り越えてきた。

若き日の正垣角太郎。数多くの苦難を乗り越えてきた。

昭和5年、研生学会新館落成記念。中央に座っているのが正垣角太郎。多くの人がお互いに力を合わせて、製造・配達などヨーグルトの普及につとめた。

昭和5年、研生学会新館落成記念。中央に座っているのが正垣角太郎。多くの人がお互いに力を合わせて、製造・配達などヨーグルトの普及につとめた。

飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

飛行機やアドバルーンで画期的な宣伝広告を展開。

昭和11年11月27日付大阪朝日新聞の全面広告。

医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。
医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。

医薬品として発売された潤生ソキンの看板広告(上)とポスター(下)。

転換期1(1945年~1979年)

牛乳から豆乳へ

1945年
(昭和20年)

第2次世界大戦により、ソキン製薬株式会社解散
戦争によって工場も長野県松本市へ疎開移転を余儀なくされる。戦後の日本経済の破綻にともない経営が成り立たずに解散。それでも正垣一義たちは研究をつづけ、原料を牛乳ではなく、植物である大豆に求めることを試みた。そもそも戦後の物資不足で牛乳は入手できなかったこともあり、豆乳を使うことになった。
乳酸菌16種共生培養法を確立
10年前、正垣一義は大連にて同じく微生物の研究をしていた大谷光瑞師に師事。科学者であり、研究者でもある大谷光瑞師は、実は西本願寺22世門主で、仏教に身をささげる人物であった。大谷光瑞師は「大般涅槃経」にある記述より、「乳酸菌の発酵物から有効成分を抽出する」方法を一義に提案。
正垣角太郎の長男・一義。父の研究を精力的に支える。

正垣角太郎の長男・一義。父の研究を精力的に支える。

正垣角太郎の長男・一義。父の研究を精力的に支える。

正垣角太郎の長男・一義。父の研究を精力的に支える。

生きた乳酸菌から分泌物へ

1949年
(昭和24年)

乳酸菌から乳酸菌分泌物の有効性へ
国会でも発表・公演
正垣一義は国会(現在の公聴会)にて、乳酸菌共生培養分泌物の有効性を発表・講演した。生きた乳酸菌ではなく、培養によってうまれる分泌物に、真の栄養価があることを説く。これは大般涅槃教の「乳→酪→生蘇→熟蘇→醍醐」という記述よりヒントを得た。最終的な過程である醍醐は「最上であり、諸薬ことごとくこの中に入る」と書かれている。この醍醐が乳酸菌の分泌物であるとして、さらに研究をすすめた。

1955年
(昭和30年)

乳酸菌発酵ろ液「味のちえ」を発売
大豆をベースに乳酸菌を培養してできる分泌物(発酵ろ液)を家庭用・業務用として開発。「味のちえ」は食品改良液としても発売された。
ソキンの製品説明会で全国を講演する正垣一義。

ソキンの製品説明会で全国を講演する正垣一義。

この大般涅槃経にある記述より「乳酸菌生成エキス」のヒントを得た。

この大般涅槃経にある記述より「乳酸菌生成エキス」のヒントを得た。

1965年
(昭和40年)

生鮮食品の鮮度保持液として発売
「味のちえ」は、寿司やパンで日持ちと自然味をます天然素材の保存料として使われる。発酵ろ液は天然素材の鮮度保持液だが、当時は豆乳の成分も入っていたため、酵母発酵が起きて製品が変質しやすいという弱点もあった。また昭和40年頃から合成保存料や着色料などの添加物が食品業界で使われる時代となり、「味のちえ」も売上げが低迷していった。
「乳酸菌生成エキス」は天然素材の保存料として、多くの店で愛用された。

「乳酸菌生成エキス」は天然素材の保存料として、多くの店で愛用された。

1975年
(昭和50年)

無農薬農業の土地改良液として発売
乳酸菌発酵ろ液は、無農薬農法の土壌改良液としても重宝されるようになった。土壌微生物を増やし、根の細胞を健全にするものだった。改良を加え、現在では「エクセルG」として販売されている。
ソキンの製品説明会で全国を講演する正垣一義。

ソキンの製品説明会で全国を講演する正垣一義。

この大般涅槃経にある記述より「乳酸菌生成エキス」のヒントを得た。

この大般涅槃経にある記述より「乳酸菌生成エキス」のヒントを得た。

「乳酸菌生成エキス」は天然素材の保存料として、多くの店で愛用された。

「乳酸菌生成エキス」は天然素材の保存料として、多くの店で愛用された。

転換期2(1980年~現代)

発酵ろ液から生成エキスへ

1980年
(昭和55年)

乳酸菌発酵ろ液から
有効成分を抽出する方法を確立
発酵ろ液から「乳酸菌分泌物」と「乳酸菌細胞をまもる物質」のみをとりだすことに成功。現在の「乳酸菌生成エキス」が誕生。

1984年
(昭和59年)

乳酸菌生成エキス「智通」発売
仏典の「智慧通達」より命名された「智通」は健康食品として販売。これが「乳酸菌生成エキス」の完成品といえる。正垣一義は自分の甥である福井正和・福井正勝とともに「株式会社物心科学生活研究会」を設立。(現在の「株式会社ビーアンドエス・コーポレーション」)
初代社長に正垣一義が就任
「智通」初代モデル

「智通」
初代モデル

「智通」2代目モデル

「智通」
2代目モデル

「智通」5代目モデル

「智通」
5代目モデル

1985年
(昭和60年)

正垣一義 没(享年84歳)
2代目社長に福井正和が就任

1995年
(平成7年)

乳酸菌生成エキス・臨床研究を開始
単純な健康ブームとしてではなく、科学的根拠とともに「智通」を紹介するために、さまざまな研究を開始。
無農薬栽培の大豆自社農場を
富士宮市に開設
安心で安全な製品づくりのために、原料からすべて自社でまかなう。

2001年
(平成13年)

静岡県富士宮市に、新工場設立
安全性と品質を高めるため、新工場を建設。
ギリシャ「オンコロジーレポート」に論文掲載
九州大学医学部/藤野武彦名誉教授と(株)レオロジー機能食品研究所/灘修身博士による免疫活性効果の研究。

2002年
(平成14年)

医療機関用サプリメント乳酸菌生成エキス
「アルベックス」発売
医療の現場で「智通」が使われていたが、さらに医療用の製品に対するニーズが増加。「アルベックス」は医療機関でもっとも使われているサプリメントとなる。(月刊「健康と医療」ドクター1000人アンケートより)
医療機関用乳酸菌生成エキス「アルベックス」初代モデル

医療機関用乳酸菌生成エキス「アルベックス」初代モデル

2004年
(平成16年)

飲みきりタイプの
乳酸菌生成エキス「ラクティス」発売
社名を株式会社ビーアンドエス・コーポレーションに変更。
飲み切りタイプの乳酸菌生成エキス「ラクティス」

飲み切りタイプの乳酸菌生成エキス「ラクティス」

3代目社長に福井正勝が就任

2006年
(平成18年)

ヨーロッパの雑誌
「イミュノロジーレター」に論文掲載
新潟大学大学院/安保徹教授による免疫調整効果の研究。

2011年
(平成23年)

健康補助食品GMP適合認証の取得(富士工場)
製品の品質と安全性を図ることを目的とした第三者機関による認証「健康補助食品GMP」を取得する。

2014年
(平成26年)

日本初のヨーグルト製造販売より100年

2015年
(平成27年)

「プラズマローゲンS」を発売
「乳酸菌生成エキス」に加え、ホタテ由来プラズマローゲンの製造を開始。新たな歩みをスタート。
「プラズマローゲンS」

「プラズマローゲンS」

4代目社長に永石和美が就任

2016年
(平成28年)

福岡営業所開所

2017年
(平成29年)

静岡営業所開所
八王子研究開発センター開所
八王子研究所から移転
八王子研究開発センター

八王子研究開発センター

2022年
(令和4年)

5代目社長に村越 優子が就任
「智通」初代モデル

「智通」初代モデル

「智通」2代目モデル

「智通」2代目モデル

「智通」5代目モデル

「智通」5代目モデル

医療機関用乳酸菌生成エキス「アルベックス」初代モデル

医療機関用乳酸菌生成エキス「アルベックス」初代モデル

飲み切りタイプの乳酸菌生成エキス「ラクティス」

飲み切りタイプの乳酸菌生成エキス「ラクティス」

「プラズマローゲンS」

「プラズマローゲンS」

八王子研究開発センター

八王子研究開発センター

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